「お父さん、私を置いていかないで」
これは、土曜日に起きた宮城岩手内陸地震の犠牲者の奥さんの悲痛な叫び。
この夫婦は愛し合っていたに違いない。かけがえのない人を、何の心の準備もなく失った悲しみは想像を絶するものがある。
涙が溢れた。そして、またあの時の事を思い出した。
私は、阪神淡路大震災の被災者だ。芦屋と言う高級住宅地のある市の下町に住んでいた。入社1年目。九州から出てきて無我夢中で仕事をしていた頃の話である。その時の事を少し書いてみたい。
3連休明けの火曜日だったのを良く覚えている。新入社員の私は5時45分に目覚ましを掛けていた。ベッドから一足降りたその瞬間、地が揺れた。点けたばかりの電気はパリンと割れて部屋は真っ暗になった。
私は仰向けに倒れ、揺れのなすがままになっていた。色々な物が飛んできた。外では大きな音がしていた。どうしようもなかった。
何分経っただろうか。揺れが収まったので、散乱した物の上を這って、とりあえず玄関のドアを開け外へ出た。
非常灯に照らし出された周囲の景色に言葉を失った。一軒家は悉くつぶれている。前のマンションは1階部分がつぶれている。
すぐにあちこちから大声が聞こえる。「お父さん、大丈夫?」「お母さん、オレはここにいるよ!」「誰か来て、引っ張り出して~」。
程なく、2Fに住んでいた大家さんが住人の安否を確かめにやってきた。私達は皆大家さんと一緒に南にある大きな公園に向かって逃げた。
しかし、すぐに大きなグレーの壁にぶち当たった。「あれ、こんなとこにマンションあったっけ?」「違う、これ阪神高速だよ!倒れてるんだ!!!」
度肝を抜かれた。そこここに、滑り落ちたと思われる車が横倒しになっていた。
反転し、北へ向かい公園で夜が明けるのを待った。その時、一緒に逃げた人が持っていた、当時はまだ貴重だった携帯電話をお借りして実家の大分へ電話をした。
寝ぼけた声で電話に出た母に「お母さん、とりあえず私は大丈夫だから。生きてるからね!」と。
要領を得ない様子の母だったが、この時電話をしておいて良かった。何しろその後2日間は電話が通じなかったのだから・・。
明るくなってくると、周囲の様子が更に明らかになってきた。おびただしい数の家が崩壊している。長屋が多かったので、折り重なるように。
私は大家さんと共に、救出活動に奔走した。生き埋めになっていた人が助け出されれば毛布を届ける。お米屋さんだった大家さんはドラム缶を使って炊き出しもしていた。それも手伝った。食べる物は決定的に不足していた。
レスキュー隊の人は余震を気にしつつ救出活動にやっきだ。
1日目の夜の帳が降りてきた頃、目の前のつぶれたマンションから2歳くらいの女の子が掘り出された。息を確認したレスキュー隊は、その女の子を道に寝かした。とりすがる老父。「病院へ連れていって下さい。」と涙ながらに訴えた。
レスキュー隊の人はハッキリ言った。「申し訳ありませんが、この子はもう亡くなっています。ご自分達で遺体安置所へ運んで下さい。私達は生きている人を救出しなくてはいけないのです。」
絶句した老父は近くにいた私にとりすがってきた。「姉ちゃん、ちょっと見てくれんか。まだ生きとるんじゃないんか。何とかしてくれ。」
私は女の子の脈を取り、顔を近づけた。息はもう無かった。「おじいちゃん、ごめんな~。もうダメみたい。一緒に運ぼう。ここじゃ寒いわ。」
「そんな、何とかしてくれよ。昨日たまたま泊まりに来ただけなんじゃ。まだわしの娘もみつかってない。何でこんな事に。。オレが代わりに死ねば良かったんじゃ。」
1月の夜だ。道端に寝かされているのは何とも寒そうだ。壊れた家のドアを外して持ってきてタンカ代わりにし、女の子を毛布でくるみ、大人4人で近くの体育館へ運んだ。
涙が溢れた。拭いても拭いても涙は止まらなかった。見上げた空にボーッと浮かんだ月は何とも赤かった。
夜も余震は続いた。私は一人で部屋で寝るのが怖いので、大家さんの家に泊めてもらった。
関西人は皆陽気だ。大家さんは「これ、もう瓶が欠けちゃって売れないから飲もう!」と言って、酒を飲んでいた。
それでも靴は履いて眠った。震度4クラスの余震は何度も来て、その度に外へ飛び出した。
夜半になって、前のマンションから生きて救出されそうな人がいると言う情報が入り、私達は皆マンション前に行った。ガレキの中から声が聞こえる。外からは奥さんが「しっかり!あと少しやで!」と必死に声を掛けている。私達も応援した。
1時間程が経って、無事男性が生きて救出された。ケガはたくさんしていたが、命に別状なし。とりあえず、大家さんの家で一緒に眠る事になった。
その男性がしてくれた話はすごかった。地震直後から家具の間に挟まれ動けなかったらしい。声を出そうと思ったが、粉塵が喉まで入り声も出せなかった。
喉が渇いた。体のアチコチが痛かった。それでも信じて待った。一日待った。そして、少しずつレスキュー隊が迫り、声が出せるようになったのだと。
翌日も同じように救出活動に明け暮れていた。更に翌日になって、近くの神社なら、並ばずに電話が掛けられると聞いて、早朝にお願いしに行った。
実家に電話をすると、母が受話器の向こうで泣き崩れた。毎日千人単位で死者が増えているのだという。テレビに映し出される死者の名を必死で目で追い、私の名が無いのを確かめテレビにとりすがって泣いていたそうだ。
3日目になると、会社の先輩、取引先の方までが私を探してやってきた。どうやら、千人以上いる社員の中で、私が最後まで安否が確認できなかったらしい。会社に安否を知らせなければいけないなどという考えは全く浮かばなかった。社員としては失格である。
しかし、探しにきてくれた人は皆口を揃えて言った。「ここが一番ひどい!良く生きてたなぁ」と。
その日の夕方、京都にいる伯母の家へ線路を歩いて向かった。途中からは電車に乗った。大阪に着くと、もうそこには普通の営みがあった。すすだらけの私が恥ずかしかった。
伯母の家に着いて、お風呂から出ると、温かいうどんが準備されていた。そして私は初めてテレビで被災地の様子を見た。
驚いたのは、その時の私は既に「他人事だ」と思っていたことだ。さっきまでいたあの惨状は、抜け出した途端、もう現実味がすっかり無くなってしまう。人の心は恐ろしい。
2月になって会社には戻ったものの、芦屋の家はまだライフラインが復旧せず、会社に近い研修センターから通った。
家に戻れたのは4月の半ばだっただろうか。
夢中だった。以前にも増して夢中だった。何だか良く分からないまま、仕事に追われ生活に追われた。
何が生死を分けるのか。ナゼ私は助かったのか。自分の部屋へ戻ると、枕には割れた電球のカケラがビッシリと突き刺さっていた。
もしあのまま寝ていたら、死なないまでも私の顔は頭はひどい怪我をしていたに違いない。
「人の役に立つ仕事がしたい!生き残ったこの命を何かに使わせてもらわなければ・・」と、私は心に誓っていた。
そんな思いも少しずつ年月が過ぎ、欲が上塗りしていって、忘れそうになっていく。
1月が来る度、大きな地震が起きる度、私はその誓いを思い出す。あの日、私の腕の中で冷たく土にまみれていた女の子の感触と、赤い月の不気味さと共に・・。
今回の地震で亡くなられた皆さんのご冥福を心よりお祈りし、私の命の使い方を改めて考える機会にしたいと思う。
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